連載エッセイ「日々の徒然」

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◎第38回(2002/12/20)

本が厚くなる理由2/2

野口 洋隆
● 本が厚くなる理由のその2は、紙が厚くなっていることにある。

 正確に言うと、ページ数が減っているのに、厚さが変わらないようにした本が、多く出回っている、ということである。

 何となれば、筆者は紙会社勤務なのだが、最近流行の紙は「嵩高」である。「カサダカ」と読む。
 「束高」「バルキー」なども同義で使われることが多い。ちょっとカッコつけて言うと、「低密度」となる。
 つまり、嵩高な紙とは、密度を低くしたものである(注1)。同じ重さの原料で、より厚みが出るように作り込んでいる。フカフカの紙と言えばいいのだろうか。

 今、出版社に嵩高の紙が受けている理由は、コストである。
 紙というのは、小豆や豚肉とかと一緒で、キロいくらで取引される。
 ところが日常の生活の中で、コピー用紙を何キロ使う、とか言わないであろう。何枚のはずだ。
 出版社も一緒で、何々の本を何部出すには何々の紙を何枚使う、というカウントをしている(実際には1000枚を一括りにする「連」というものを業界では使うが、考え方は一緒)。

 ところが、いざお金を払う段階では、何キロだから何円、という話になる。

 賢明な諸氏はもうお分かりであろう。

 ● 同じ枚数の紙を買うなら、「軽い紙」の方が得なのである。

 でも、別に軽くするために薄い紙に替えればいいんじゃない?と思われる方もおられよう。

 その通りである。

 嵩高な紙が受けている理由は、もう一点ある。
 冊子の厚さが確保できる、という点である。
 薄いぺらぺらなものより、厚みがあった方が豪勢に見える、という心理が人間にはある。
 一説によると、昨今の状況では広告出稿量も減っており、雑誌の広告ページも減っているのだが、それをそのまま雑誌のページ数減としてしまうと、その雑誌が貧相になり、売上にも響く、というわけなのだが、それに対する魔法の処方箋が「嵩高」な紙ということらしい。

 そりゃそうである。売ってる紙会社も「ページ数2割減でも、同じだけの束を確保!」とか何とか言って売り込んでいるのだから(注2)。

 でも、雑誌の値段が下がってるのかいな。言ってはいけないことかな。という疑問はなきにしもあるといったら怒られるだろうか(まだ、ぼかしたりないか?)。 

 というか、紙会社にしたって、ニーズがあるとは言え、自分の売上高が減るものを奨めているわけだから、自分で自分の首を絞めているとも言えるが、他社が売っていて自分のところになければ自分の売上にはならないわけであり、競争に破れないためにも、ユーザーにとってパフォーマンスがよいものを作り続ける必要があるのだ。
 日比谷公園の脇にそびえ立つビルの人たちおかげで、業界においては、今日もまた市場競争の原理が働いて、ユーザーのために身を削るサプライヤーがいるのである(本当か?)。

 ● 筆者は個人的には嵩高の紙が嫌いである。 

 自分の会社でも売っておいて何だが、筆者的にはあまり好きな紙ではない。
 
 営業のときは「○○も○○も○○も嵩高を出してきているからシェアを取られるんだよ。うちも早く対抗品出さなきゃだめだ」とか技術サイドの尻をたたいていた(※筆者ではない)にもかかわらずだ。

 なぜ、嫌いなのか?

 同じページ数なら薄い方がいい! 持ち運びやすいし、保管スペースを獲られないから。

 筆者もW氏とかと同じく、捨てられない方である。買った本は読み返しもしないのに捨てられない。古本屋に売っぱらって整理することもできない。ほかにしなければならないこと(試験勉強とかピストンのアレンジとか)がない状態では、常時2〜3冊の本を同時並行的に読んでいることが多い。
 現在の生活では、もっとも貴重な読書時間は通勤電車の中なので、いきおいカバンに入れて持ち歩くことになる。薄くて小さい方がいいのである(軽いのは助かるが)。

 一応紙屋としての弁明をしておくと、低密度の紙も、見栄を張るためだけでなく、ほかにも利点はある。
 紙を薄くした場合、強度が落ちるという問題があるが、より大きい問題は不透明度である。印刷関係では「裏抜け」と言うのだっけかな? 違ったら申し訳ない。
 普通のコピー用紙でも、コピーの裏から見ると少し透けるでしょ。
 紙を薄くしていくと、もっと透けるようになる。片面だけならまあ許せても、本や雑誌では両面に印刷するわけだから、あまり透けるようだと見難くてしかたがない。
 
 そこら辺にある文庫本でも新刊書でも構わないので、なかの本文の紙をご覧いただきたい。
 
 僅かながら黄色がかっていたり赤味がかかっていたりするはずだ。
 それだけ見ていたのでは分かりにくいが、コピー用紙と並べてみると一目瞭然である。

 色がつけてあるのは何故か?

 そう、不透明度を上げるためなのである。

 薄い紙は透けやすい。ところが、同じ重さでも、紙を厚く作ると透過する光量が減り、透けにくくなる。低密度の紙は、実は不透明度の点でもメリットがあるのだ(注3)。

 ● ペーパーバックは厚いぞ!

 洋書屋に行ってペーパーバックを手に取ってみると、大きさ・厚さの割に軽いという感想を持つだろう。
 筆者が洋書屋に行くのは見栄のためであるが、ペーパーバックは多くがデーハーな感じで、見ていて楽しくなる。
 あのペーパーバックの紙が、嵩高用紙の最たるものであろう。あれはかなりフカフカの紙である。
 しかも、紙の色はグレーである。不透明度は抜群にいいのではなかろうか。

 たぶん、日本の紙とは原料のパルプの種類が違うはずである。化学的処理をしていないパルプを多く使うと、あのようなフカフカの紙ができる。 
 
 ペーパーバックの厚さでは書棚で場所を獲って適わない。なんてことはない。ホンの数えるほどしかないのだから。今後も、読むのに日本語の10倍以上の時間がかかるから、置き場所に困るほど増えることはないであろう。

 ともかく、一番頭に来るのは、大した文字量もないホンが立派に装丁され、ほかの本と同じような顔をして書店の書棚に鎮座ましましていることである。筆者としては、本の厚さは内容量と比例してもらいたいのだった。薄くたっていいじゃん。薄くても高密度で充実した本だってあるだろうし、薄いならではの軽妙さを体現できる場合もあろう(注4)。 

 最後に本稿(1と2)の執筆理由を書いておこう。

 現在(2002年11月)は、ピストンの第11回演奏会まであと2ヶ月を切っており、演奏へのモチベーションを高める一方、アレンジの納期も迫っており(過ぎ去っているわけではないところがコワい)、創作意欲を無理矢理にでも高めている状況である。
 このような心理状態であると、どうでもいいようなことが無性にしたくなり、駄文を書き連ねるということにもなるのであった(やっぱり、筆者の特殊状況?)。
 そんなことしているヒマがあったら楽譜を書け、という声も聞こえてくる気がする。その前に楽器をさらえ、という声もよく聞こえる。
 ピストンのアレンジャー諸氏も、どうやら今の時期は気が高ぶっているのではないか。特に締め切りが迫って楽譜を書いているときだと、その人の性向が現れるようで興味深い。今日もAB氏がメドレーにブラ1使っていいか、と内輪の掲示板に書いていた。「なるべくおいたしないようにしますから」との付言もあった。なるべく........。ふむ。どうしてもやりたいんだろうな、いろいろと。また大変なことになりそうだけど。でも、それがAB氏のAB氏たるところだしな。止めてもやっちゃうんだろうな。期待(フアンと読む)が高まっているのは筆者だけではないはずだ。

 話は外れたが、「受験勉強のときに、目先の勉強には直接関係ない本を無性に読みたくなった」と誰かが書いているのを読んで、我が意を得たりとも思ったこともある。
 あと、数年前に買っていてこの前ようやく読んだ本と、とある文章に自らの鈍感さを思い返させられたことがあって、とにかく無性に何か書きたくなってしまったのだった。
 書いてみて、いつになくとりとめなしの駄文になってしまった。まあ、これが筆者の意識化・言語化能力の赤裸々な姿なのだろう。駄文陳謝。


~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ ~~ 

(注1)
 紙の密度は、通常1立方センチメートルあたりのグラム重量(g/cm3)で表す。
 普通のコピー用紙が0.8〜0.9くらいなのに対し、低密度で嵩高にした紙は0.6くらい(水の半分強)になる。

(注2)
 一番よくあるのは「90ベースで110の厚さを出せます!」とかいう言い方である。
 一般の商業印刷(チラシとかカタログとかパンフレットとかマニュアルとか....)に使う紙と、出版物(本とか雑誌とか)に使う紙の体系は、一部異なっているのであるが、それは置いておいて一例を挙げてみよう。
 「90ベース」というのは、大きさが四六判(788mm×1091mm)で、1000枚(1連)で90kgの重量があるような紙、ということである。文房具屋さんとかで紙を買おうとすると「90キロ」の紙という言い方になると思う。
 もちろん紙の大きさは四六判だけではなく、ほかにもいろいろある。例えば上の「90ベース」と同じ紙でも大きさ(寸法と言う)が変わると、数値は変わる。例えば、A判(625mm×880mm)では「57.5kg」である(ゴーナナハンと呼ぶ)。
 製造工程での管理は「米坪」(1平方メートル当たりの重量:g/u)で行う。計算してみれば概ね分かるが、「四六の90」「Aの57.5」はいずれも104.7g/uである。切り方が違うだけなのだ。
 どこの業界にも符丁のようなものがあろうが、紙の業界で「こんどの○○の新車のカタログね、おたくも見積もり頂戴。マットでヨコのキューサンハンね」とか言われたら、キク判の横目(939mm×636mm)−寸法の表示が大きい数字が先に来ているのに注意−で1000枚で93.5キロの紙(すなわち、米坪157.0g/uで、マット調(ピカピカしないつや消し調)の紙の銘柄を見積書に記載していかなければならない。
 場合によっては、「A1(エーワンと読む)ですか、A2(エーツー)ですか?」と訊いて確かめなければいけない。(このご時世では、「んなA1の見積もりなんかクライアントに持っていけるかよ、ゴルア!」と怒られてしまうかも知れない・・・あああ、最近は営業から離れているので実態はよく分からない。・・・・・・同業者にだけは読まれたくないわ)

(注3)
 紙の不透明度を上げる方法として、色をつける、というももあるが、薄い白い紙の不透明度を上げたいという場合もある。まあ、上げたいというか、ユーザーから薄く=軽くしてくれ、という要望が来て、薄いの作って印刷したら、今度は透けて見えると苦情を言われ、仕方なくその薄さで不透明度を上げることを考える、という状況がより事実に近いのであるが。
 一つの方法として、酸化チタンをぶち込むという対策がある。チタンであるから、いかにも高そうと思うかも知れない。事実高い。酸化チタンは、とっても白い割に光を通しにくいらしい。

(注4)
 思い浮かんだ例は、岩波文庫の『奥の細道』である。何となくいいぞ。


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